最高裁判所第二小法廷 平成2年(し)83号 決定 1990年10月30日
少年 D・K(昭46.1.21生)
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告の趣意のうち、憲法31条、14条違反をいう点は、少年法23条2項による保護処分に付さない旨の決定に対しては、たとえそれが非行事実の認定を明示したものであっても抗告が許されないとした原審の判断は正当であり、このように解しても、憲法31条、14条に違反するものでないことは、当裁判所昭和22年(れ)第43号同23年3月10日大法廷判決(刑集2巻3号175頁)の趣旨に徴して明らかであるから、所論は理由がなく(最高裁昭和60年(し)第3号同年5月14日第三小法廷決定・刑集39巻4号205頁参照)、その余の点は、本件再抗告の適法な抗告理由に当たらない。
よって、少年審判規則53条1項、54条、50条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 木崎良平 裁判官 藤島 昭 香川保一 中島敏次郎)
再抗告申立書
少年D・JことD・K
昭和46年1月21日生
上記少年に対する兵庫県青少年愛護条例違反保護事件について、平成2年6月13日大阪高等裁判所がなした、抗告を棄却する決定は不服であるから、少年法第35条により再抗告する。
平成2年6月27日
上記少年附添人
弁護士 ○○
同 ○○
同 ○○
最高裁判所御中
記
申立の趣旨
一、原決定を取り消す。
二、神戸家庭裁判所尼崎支部が、平成2年1月29日少年に対してなした決定を取消す。
三、本件を神戸家庭裁判所尼崎支部に差し戻す。
との決定を求める。
申立の理由
原決定は、憲法に違反し、若しくは憲法の解釈に誤りがあり、かつ少年法32条所定の事由(決定に影響を及ぼす法令の違反、重大な事実誤認等)があってこれを取り消さなければ著しく正義に反すると認められるときは、たとえ少年法35条所定の事由が認められない場合であっても再抗告できるとするのが、最高裁の判例である(昭和58年9月5日決定。判例時報1091号3頁以下)。
以下詳述する。
第一、原々審の事実誤認及び法的判断の誤り(編略)
第二、原審決定の違法性
1、以上のとおり、きわめて問題が大きく、違法性の高い原々審決定に対して、原決定は、非行事実の認定を明示したものであっても不処分に対しては、抗告は許されないことを理由として抗告を棄却した。しかし、これは憲法第31条・14条に違反し、あるいはその解釈を誤ったものである。以下許述する。
2、適正手続条項(憲法31条)と少年保護手続き
原審決定は、憲法31条の解釈・適用を誤った違法がある。
(1) 文言解釈から実質解釈へ
現行少年法が立法された当時、憲法31条の適正手続条項と、少年保護手続との関係が充分に認識されていたわけではない。その後の学説や判例も、少年保護手続が刑事処分と異なるという点を強調することのみに目を奪われて、少年保護手続と憲法31条の関係をきめ細かく検討することを怠っていた。そのために、いたずらに少年法の各条項の「文言」にとらわれた解釈を行い、その解釈が実質的に理由があることであるかどうかさえ考えもせず、一言のもとに断定する誤りを犯してきたのである。
例えば、いわゆる「みどりちゃん事件」最高裁決定以前は、保護処分の不取消の決定に抗告ができるとは、判例も学説も全く考えていなかったのである。それは、法の文言が抗告の対象を「保護処分の決定に対しては」と書いているからという、きわめて単純な理由からきていた。最高裁の決定はその意味では、それ以前の判例学説が一致していた前提を大きく踏み外して行われたのである。このような傾向は、とりわけ実務の最先端である下級審判決で近時ますます重視されてきているところである。
裁判所が、機械的で単純な分言解釈からいわば法文を越えた解釈に踏みこまざるを得ない理由は、少年法における決定に対する不服申立手続(救済制度)を憲法上の要請-適正手続条項や平等条項-に合致させ、少年法を合憲の枠の中で解釈する必要があるからであって、そうした努力なくしては違憲状態が発生するからである。以下、非行事実の誤認の場合の救済について近時の裁判所が現行少年法を憲法の諸原則の要請に合わせるために、いかに努力し、解釈しているかについて述べる。
(2) 抗告権の拡大及び原判決取消事由の拡大
いわゆるみどりちゃん事件について、最高裁は事件を原審の東京高等裁判所に差し戻すについて、保護処分の確定後に保護処分の基礎となった非行事実の不存在が明らかになった場合にも何らかの救済の途を開いておくことが必要であるとし、次の様に述べている。「少年法の定める少年保護事件の手続は、少年の健全育成と保護を究極の目的とするものであるが(同法1条参照)、右の目的のもとにされる保護処分が、一面において、少年の身体の拘束等の不利益を伴うものである以上、保護処分の決定の基礎となる非行事実の認定については、慎重を期さなければならないのであって、非行事実が存在しないにもかかわらず誤って少年を保護処分に付することは許されない、というべきである。そして、誤って保護処分に付された少年を救済する手段としては、少年法が少年側に保障した抗告権のみでは必ずしも十分とはいえないのであって、保護処分の決定が確定したのちに保護処分の不存在が明らかにされた場合においても何らかの救済の途が開かれていなければならない」。
保護処分の不取消決定が「保護処分の決定」といいうるかについては、法の文言からは否定的に解され、現にこの最高裁決定までの判例、学説はほぼ一致して抗告をなしえないというふうに解していたといってよい。
しかし、このような判例、学説の動向にもかかわらず、最高裁は少年法7条の2第1項の不取消の決定に対し、抗告を適法として認めるに至った。憲法上の要請を正面からとらえ、形式的な文言解釈を脱却したのである。
又、この決定において最高裁は、少年の再抗告事件において、原決定に少年法35条所定の事由が認められない場合でも同法32条所定の事由があってこれを取り消さなければ著しく正義に反すると認められるときは、最高裁判所は、職権により原決定を取り消すことができるとした。その理由として、「少年法35条は、抗告棄却決定に対する再抗告事由を、憲法違反・憲法解釈の誤り及び判例違反のみに限定しているが、刑訴法上の特別抗告につき同法41条の準用を認める確立された当審判例の趣旨に照らせば、たとえ少年法35条所定の事由が認められない場合であっても、原決定に同法32条所定の事由があってこれを取り消さなければ著しく正義に反すると認められるときは、最高裁判所は、その最終審判所としての責務に鑑み、少年法及び少年審判規則の前記一連の規定に基づき、職権により原判決を取り消すことができると解するべきである。」とする。この点も従来より大胆に一歩を進めたのである。
この再抗告審の職権による原決定の取消に関する判断の射程距離は、いうまでもなく、少年法27条の2第1項による保護処分の確定後の取消という非常救済の手続だけではなく、通常の抗告の場合にも広く及んだ。
道路交通法違反の少年保護事件手続における再抗告の事件において、最高裁第三小法廷・昭和62年3月24日決定(判例時報1232号150頁)は、柏の少女刺殺事件決定の第四点の判示を具体的なケースに適用して、「事実誤認の疑いがある」とし、家裁の保護観察処分決定および抗告審の抗告棄却決定を取り消して、これを原々審の東京家裁に差し戻した。その判旨は、次の通りである。
「少年の再抗告事件において、少年法35条1項所定の理由が認められない場合であっても、原決定に重大な事実誤認があってこれを取り消さなければ著しく正義に反すると認められるときは、原決定を取り消すことができると解される(最高裁昭和58年9月5日第三小法廷決定・刑集37巻7号901頁)」。
「当審において取り調べた警視庁刑事部鑑識課長作成の『指紋の対照結果について(回答)』と題する書面によると、・・・・・・右道路交通法違反事件の違反者が、違反現場において、交通事件原票中の供述書に押した指印は、少年の指印ではないものと認められるから、少年が前記非行事実を犯したものとしてなした保護処分決定及びこれを是認した原決定には、重大な事実誤認を疑うべき顕著な事由があり、これを取り消さなければ著しく正義に反するものと認められる。
よって、少年審判規則53条2項、54条、50条により、原決定及び保護処分の決定をいずれも取り消し、本件を東京家庭裁判所に差し戻す。」これを受けて差戻審である東京家裁は、非行事実なしとして、不処分決定を言い渡している。この事件は、通常上訴の手続内において、保護処分決定の確定前に救済を行った事件である。
このように、みどりちゃん事件以後の最高裁判所は、少年法制の形式的、機械的な文理解釈を越えて、憲法上の要請から、原審の誤った事実認定についての不服申立につき救済の範囲を拡げてきたのであり、その意義は大きく、「実質的な法創造機能を営んだ」とさえ言われている。しかし、憲法の上の要請を素直に解すれば、それ以前の学説や実務が、あまりにも形式的な文言にこだわった解釈を当然のこととして、検討を怠ってきていたために、一見すると「大胆な一歩」に見えるだけで、本来当然のことだったのである。
(3) 不開始、不処分決定に対する救済判決
下級審判例には、誤って非行事実を認定して行った決定について取消を認めているものがある。
例えば不処分決定と没取が言渡された事例に関して、岡山家裁・昭和35年9月26日決定(家裁月報12巻12号147頁)が法目に値する。この事案では原決定は、窃盗の事実を認定しながらも、少年法23条2項後段「保護処分に付する必要がない」と判断して不処分決定(訓戒のうえ保護的措置がとられている)と没取を言渡しているが、この決定では、窃盗の事実は証拠不十分であると判断し、したがって、原決定を取消さなければならない場合に該当するとしている。すなわち、少年法23条2項前段の「保護処分に付することができない」場合に該当するにもかかわらず、後段の「保護処分に付する必要がない」としている点で原決定に誤りがあることを認め、少年法27条の2第1項に基づき本件は保護処分ができないものとして上記決定と没取決定を取消すべきものであるとした。ただ、結論的には保護処分に付さない旨の決定は、これができない場合もこの必要がない場合も、主文には変わりがないから、決定主文はそのままとし、没取決定のみを取消すとした。
また、富山家裁・昭和51年5月6日決定(家裁月報28巻12号203頁)では、道交法違反保護事件で反則金納付指示及び不処分決定を受けた少年が身代わり犯人であることが判明した事案につき、反則金の納付指示は「少年に対する強力な保護的措置であり、不処分決定とワンセットにして保護処分に準ずるもの」であり、また金銭の納付という性質から被害回復が可能であり、保護処分の継続中と同視することができ、取消の実益が存在するとして、少年法27条の2第1項を類推適用して、不処分決定を取消した。
さらに、新潟家裁・昭和57年3月31日決定(家裁月報34巻8号132頁)では、道交法違反保護事件(踏切一時不停止、共同危険行為)で別件保護中を理由に不処分決定を受けた少年に対して、共同危険行為の事実は証明がないとして、この不処分決定を取り消し、改めて踏切一時不停止については別件保護中を理由に不処分決定し、共同危険行為の事実については非行なしを理由として不処分にしている。裁判所は、この決定のなかで次のように判示している。不処分は保護処分に付する決定ではないから、同条項を直接適用して同決定を取り消すことはできないが、非行事実の存在を認定したうえで不処分あるいは不開始を決定した場合に、「この認定を公権的に是正しうる途を閉ざしてしまうことは少年の人権保障の見地からみて適当ではなく、少年法27条の2第1項の類推解釈により少年の名誉回復のため必要がある場合にはこれを取消すことができると解するべきである」。
なお、神戸家裁・昭和44年4月12日決定(家裁月報21巻10号173頁)は、不開始決定後、成人である兄が、実弟である少年の氏名を冒用していたことが判明した場合について、この不開始決定は、事件につき現に弟の名において少年らしく振る舞った兄に対してなされたものと認めるのが相当であり、少年法27条の2第1項の「法意に照らして」これを取り消しうるものとした。保護処分決定についてさえ、審判権がなかったことが判明した場合に取り消しうるのであれば、「審判不開始決定については、該決定にいわゆる一事不再理の効力があるか否かを論ずるまでもなく、これを取消し得るもの」と解している。これこそ、実務に携わる者の当たり前の感覚である。
このようにして、不処分不開始決定に対しても、それが非行事実の認定をしたうえでのものである場合には、人権保障の見地から少年法27条の2第1項を類推適用して、これらの決定を取り消しうるとするのが、下級審判例の流れである。
(4) 救済判決の不充分性
みどりちゃん事件以後も最高裁判所は、周知のとおり、「保護処分の継続中」の文言から、処分の執行が終了した後は、これを取り消す余地がないとしている。それについての実質的な理由付けは存在しないと言ってよいし、成人の再審との不均衡を考えれば、憲法の適正手続保障条項や平等条項からも、又少年に対する教育健全育成という見地からも大きな批判を受けているところである。例えば、20才のAと19才のB・18才のCが共同して殺人を犯したとしてAが5年の懲役、Bが逆送されて4年の懲役、Cが少年院送致になった場合で、しかも6年後に真犯人が違捕されたという例を考えれば明瞭にわかる。A・Bには再審の道があり、Cは全く救済されない。こんなことが憲法上許されてよいはずがない。
非行事実を明示した不処分決定に対する抗告についても、最高裁第三小法廷・昭和60年5月14日決定(家庭裁判所月報37巻6号67頁)が、「少年法23条2項による保護処分に付さない旨の決定に対しては、それが非行事実の認定を明示したものであっても、抗告をすることができない」という原審の判断を支持して、再抗告を棄却した。これも又、実質的な理由付けはない。前記の新潟家裁が下した「非行事実の誤った認定を公権的に是正する途を閉ざすことは適正でない」という誰が考えても当たり前の判断が何の理由もなく、単なる形式的文言解釈で否定されている。
憲法31条・14条に適合するよう少年法を解釈することは、法律家としての当然の責務である。憲法との関係につき、あまり意識されていなかった頃の学説や判例に引きずられて、違憲の解釈をする必要性は全くない。
(3)で引用した下級審判決のうち、新潟家裁・神戸家裁の決定に比べて、岡山家裁・富山家裁の決定は「処分」の文言に依然としてこだわった上で、「不処分決定」の中に何らかの「処分性」を見つけだそうとした理論構成をしている。しかし、それが不自然であることは、例えば、「殺人を犯した。しかし、不処分にする」という決定には抗告ができず、たかが反則金を強制されただけの決定なら抗告できるという理論的結論になることだけでも明白であろう。反則金ならまだしも、不払いにして別途争い得るし、そもそもたかがお金の問題と、名誉や大きな社会的不利益あるいは、本人の心の痛手を比べてみればすく不自然さに気づくことである。少年にむかって「お金の問題なら大切だけど、君の心の問題など大したことではない」などと言える裁判官がいるのであろうか。これらの下級審判決は、子どもの人権についての憲法上の要請を実感しつつ、しかも、従前の理論や最高裁判決の射程距離を気にしていたために、正面からの理論構成がとれていないのである。
本件についても、非行事実を認定しながら、不処分とし、しかも不処分とする情状については、全く触れられず、専ら、「訓戒」に終始している。そして、「訓戒」の内容は、少年を保護観察等の保護処分に付するより“重罪”であることを指摘し、少年が「暴力団にみられるスケコマシ的人間になるのではないか」「正常な男女関係が困難になるのではないか」と少年の名誉を毀損し、徹底的にダメージを与えるものであり、社会や他人への不信を植えつけるものであった。
最高裁はすでにみどりちゃん事件で、通常上訴で争えないとされていた非常救済手段である保護処分の取消まで抗告で争えるとする道を拡大し、大胆な法創造機能を果たした。にもかかわらず、本件のような決定に通常の不服申立・救済が許されないとすることは、全く何の整合性もない。
時代の流れははっきりとしている。今や憲法上の要請を素直に打ち出すべき時である。学説も急速にその方向に向かいつつある。少年法という下位法の形式的な文言にとらわれて、憲法上の要請を捩じ曲げてはならない。
3 憲法14条と抗告の可否
原審決定は、憲法14条の解釈・適用を誤った違法がある。
(1) 刑事事件における犯罪事実認定の重要性
刑事事件において、公訴棄却・免訴の判決について、上訴ができないにも関わらず、刑の免除の判決に上訴ができる理由は何であろうか。これらはいずれも、刑事罰という不利益が被告人に課せられるものではない。にも関わらず、公訴棄却・免訴と刑の免除とで上訴ができるできないの差のある理由は、前二者が有罪・無罪の事実認定をしていないのに対し、後者は有罪の認定をしているという点にのみある。
公訴棄却・免訴にも上訴を許すべきであるとする団藤教授の説は、これらが無罪の宣明を行っていないゆえに、被告人にとってはやはり事実上の不利益があり、それは上訴で争う利益たり得るという点にあり、無罪を宣言されないことの事実上の不利益の重要性を直裁にとらえている。これに対して、公訴棄却・免訴に上訴を許すべきでないとする平野教授は、元々被告人には無罪の推定があり、公訴棄却や免訴の判決を受けた者は当然無罪と推定されているのであるから、上訴で争う利益なしと考えるのである。実際の社会では「被告人は有罪と判断されない限り無罪と推定されている」という大原則どおりの意識が弱く、逆に「無罪」と宣明されない限り有罪の心証を持ってしまっているという現実を知りつつも、それに妥協せず、被告人の無罪推定という大原則を重視して、むしろ社会意識の方が誤っているのであるから、それを法の原則に引き寄せて理想を実現したいという考え方である。団藤説はその点、理想はそうであっても、一般社会が被告人は無罪と推定されるという意識を充分に持っていない現状では、曖昧なままでは実質的な不利益が大きいという現実を無視できず、無罪の宣明を求める利益を上訴利益たり得るとするのである。いずれの説もある面での妥当性をもっており、法政策的な側面で意見が異なるにすぎない。
これに対して、刑の免除判決について上訴を許すという点は全く争いがない。前記のとおり、公訴棄却・免訴の判決と刑の免除の判決との差は、有罪の宣告部分にのみあるが、刑の免除判決について被告人に不利益がなく、上訴の対象にならないなどという説は存しない。「有罪の宣告」それ自体が他に何らの処分も伴わなくとも、大きな不利益であり、それを争うことが上訴利益たり得ることに全く争いはないのである。
(2) 少年事件における非行事実認定の重要性
少年保護事件における不処分決定を刑事事件と比べるとどうなるか。少年保護事件は刑事事件と異なり、「非行事実の認定」と「要保護性の認定」が渾然一体で審理の対象とされ、又、審理の結果である決定も、その結論だけ見たのでは二つの認定が渾然と認識されない場合があり得る。例えば、「不開始」や「不処分」という、通常人が刑事事件の感覚で言えば「無罪」に相当すると思いかねない結論の場合でも、実際は非行の事実はあり、ただ事件自体の情状や本人の状況、更には事件後の本人や周囲の状況等の要保護性判断から、審判や処分の必要性がないものと判断されて、「不開始」・「不処分」の決定がなされることはいくらでも有り得る。しかも、不処分決定の場合には、必ずしもその理由を示さなくてもよいことになっている(少年審判規則2条4項)。従って、不処分となった理由が必ずしも明確でない場合もあり得る。
審判官が非行事実の認定と要保護性の認定について未分化のままの意識で全体判断として「不開始」・「不処分」の決定を下し、かつ決定の理由も書かず明らかにしなかったのであれば、結局のところ当該少年に非行事実があったのかなかったのかは全く明らかとならない。その場合にまで、あくまで「無罪の認定」を求めて抗告を許す必要はないという考え方も成り立つかもしれない。
しかし、近時はこのような理由の曖昧な決定書はない。とりわけ非行事実がなく、少年が事実を争う場合は、決定書にそれを明記する。これは非行事実の有無が少年の権利保障の為だけではなく、教育や健全育成の観点からもきわめて重要であることを実務が確立したせいである。現行少年法の発足当初は、刑事裁判との違いが力説され、少年審判の対象は要保護性のみであって、非行事実は少年に対する裁判権や管轄権等と同様に審判条件の一つに過ぎないとの考え方が有力であった。審判の対象として、行為よりも人格に重点を置くことから、人格主義とも呼ばれた。これに対し、少年審判における適正手続の保障を重んじる立場、更にはまさに少年法の目的である更生・健全育成のためにも、しっかりとした事実認定が必要であるとする立場から、少年審判における非行事実の持つ意義をより重視し、非行事実は単なる審判条件ではなく、要保護性と並んで審判の対象とすべきであるとの説が有力に主張されるに至った。現在では、非行事実は要保護性と並んで審判の対象であるとする考え方がほぼ通説となっている。その結果、現在の少年審判は、厳密な意味において、いわゆる手続き二分とはなっていないが、現実の審判期日における運用では、まず、非行事実についての審理が行われ、これについての確信の心証が得られてから、引続き要保護性についての審理に入るという扱いが行われている。「非行認定過程にあっては、家庭裁判所の司法的機能を発揮し、審判手続における適正手続の保障に配慮することが必要である。大切なことは、少年審判と刑事裁判との手続構造の違いに着目し、少年の権利保障を形式的に行うのではなく、実質的に配慮することである」とされ、むしろ少年の防禦力・意思表示力の弱さゆえに、刑事事件における以上に、適正手続の実質化のためのプラスアルファが要請されており、刑事事件以下の保障であっていいとする考え方はもはや説得力をもっていない。
(3) 形式的な理由付けによる一蹴の無責任性
本件では現実には原々審の審判官は、非行事実の存否に関する審理を行い、その上でそれについて認定した決定書を作成したのである。従って、本件においては、「少年に非行事実あり」というレッテルは完全に貼られているのである。このような状況下において、これについて争うための抗告を許さない理由が果たして何か考え得るであろうか。刑事事件における公訴棄却・免訴判決について上訴を許さないという平野説と同様の、少なくとも全く無視し得ない理由を探し出すことは可能であろうか。これまで、抗告を認めない理由として、実質的な理由が示されたことはない。要は「処分に対し」という文言をきわめて形式的に読めばというだけのことである。刑事手続きと保護処分手続きは別個の手続きだから同一に論じ得ないなどという抽象論で正当化することが、いかに無理な理由付けであるかはすでに明らかであろう。そのような大まかな議論なら法律学は不要である。刑事手続きと保護処分手続きとは別個の手続きであるから、一概に言えないというなら、「一概に」言わずに、具体的な考慮すべき要素を取り上げて検討しなければならないはずである。そして、これまで検討した通り、検討の結果は少年保護事件として考えても、抗告を許さねばならないはずである。抗告を許さねば、少年に与える不利益はあまりにも大きく、その心の傷は下手をすると一生を左右しかねない重大事であり、しかも逆に、抗告を許した場合の弊害は全く存しないのであるから、成人に比べ、あまりにも不利益・不平等で、憲法第14条にも反することになる。現行の少年法を憲法違反となるように解釈すべきでないことは多言を要しない。「一概に言えない」・「同一に論じ得ない」などと入口だけで中身に入らない無責任な論評をして逃げることはできないのである。
4、少年の非行と異性問題とは、極めて微妙な関係にある。一方で、前述のように異性ゆえにますます非行性を進め崩れていく者がいるのは事実だが、逆に、異性の存在ゆえに非行から立ち直って行く者も極めて多いことを実務家は知っている。非行少年が一般に家族との繋がりが弱く、自らをも大切にしない状況下で、大切にしなければならない価値・人を見出すことが、少年の立ち直りの契機となることが極めて多いのである。少年もその一人である。
少年は、まさにA子との新生活を夢みたからこそ、夜間のバイト先を捜し、○○ビールをやめて、給与の多い父の佐官業を手伝い、費用の嵩むアパートを返して親元で暮らす等、これまで周囲が期待していて不可能であった堅実な生活設計を自ら作り始めた。A子の存在が暴走族からの脱退の決意にも繋がり、制裁を受けるという多大な犠牲を払ってまで脱退したのである。愛する者を得たことが、親でさえ抜けさせることの出来なかった暴走族からの脱退をもたらしたのである。
このような、自ら生活を建て直し、自立した若者に育ちつつある少年を何故に国家は妨害しなければならないのであろうか。立ち直りつつある少年に否定的判断を国家が、あるいは社会が押しつけることは、少年にとっては致命的な打撃である。
家裁の不処分決定も実体的裁判であり、犯罪行為をしていないに拘らず、なされたと国家機関が認定することは、少年にとっても保護者にとっても重大な人権侵害であり、全くの不利益処分である。犯罪を犯していないにも拘らず、家裁の誤った決定により「犯罪行為をしたが処分しない」と認定・判断さりことについて抗告の道がないとすれば、その法律上の効果は一生続く。将来の行政処分・刑事処分などにおいても前歴として不利益な情状として考慮されることは否定できないし、学校や地域でも不利益を受け、就職・結婚にも差支え、あらゆる生活上の不利益を被る可能性が一生残される。まさに、「犯罪を犯したが処分しない」という不処分決定は、少年の人権を大きく制約する裁判なのである。そして、原審が原々審決定の誤った事実認定を、その結論が「不処分」であるがゆえに、抗告を許さないという判断をしたことは、残念ながら一般社会の通念に全く反する不正義であり、裁判所を少年法の理念である健全育成の中心的機関であると信じる多くの実務家に絶望感を与えるであろう。
非行少年の立ち直りが、ただ一人の者からの信頼がきっかけとなってなされることがある。逆に、少年の周囲の心ない一人の誤った評価ゆえに、更に崩れていく少年もある。いわんや、社会を代表すべき裁判所が誤った評価を下したのであれば、いかに少年にとって致命的であることか。一人の少年にその将来に渡るダメージを与えつつ、それがたいしたことではないとする抗告棄却決定そのものが、非行克服に取り組む多くの篤志家の目からは致命的に見える。なぜならば、非行少年に日々接して、その健全育成をはかっている者は、常に少年達に一人一人の個人を大切にすること、自分自身を大切にすることを身を持って示し、各人の自立を促しているのであって、「少々の心の傷など」・「一人の子のことなど」という考え方は、そうした立場とは到底相入れない考え方であるからである。「健全育成」の中心に位置する裁判所がそのような考え方をとるとすれば、一般社会の側の裁判所に対する全体の信頼を一気に喪失するであろう。
「抗告できないのはかわいそうだけど、法律の形式上止むを得ない」と考えるか、「抗告できないとすれば、誰が見ても不合理で、法律の実質的な解釈論からは不可能である」と考えるのかは紙一重の差であるが、しかし、それは決定的な差である。少年事件に事実上再審の道を開いたと言われる柏のみどりちゃん事件の最高裁決定も、実は前者のように言って少年側の再抗告を切り捨てることはできたのである。しかし、少年だからと言って何ゆえ成人より権利救済の道が狭いのかという悲痛な訴えに、少なくとも憲法の人権規定を知っている者として救済の道を閉ざすことはできなかったのである。
憲法の人権保障は、人であれば成人であれ少年であれ、平等に適用されねばならない。少年が成人以上に保護されなければならないことはあっても、成人より権利保障が弱い等ということはあり得ない。判例時報1158号の最高裁判例を紹介した解説部分(246頁)では、この点が明らかに誤っている。すなわち、刑事訴訟で、刑の免除判決については上訴を許しながら、少年保護事件で非行事実あり、不処分という審判に抗告を認めないことについて、成人の刑事裁判制度と、少年への保護処分制度の違いから同一に議論できないとするのである。しかし、刑の免除も不処分も共に、「犯罪事実はあるが、国家は何らの罰も処分もしない」という結論である。そして、刑事裁判手続きと少年の保護処分手続きとの差はまさに、「犯罪事実の有無」の判断部分にあるのではなく、「刑罰か保護か」という処分のところに存するのであるから、いかなる処分もしないという結論の場合には、残るのは「犯罪事実あり」という認定部分だけであって、このことについては、成人の刑事事件と少年の保護事件と異なるという理由付けでは到底説明できないのである。
もし、裁判官が親として自分の子が少年の立場になったら、やっと自立の芽を芽生えさせつつある少年を一気に押しつぶし、その一生をつぶしかねない酷い処分について、親として「あきらめなさい」というのか。誤った審判が有り得ることについては、「裁判官に問題のある人もいる。そのかわりちゃんとそれを是正できるシステム(上級審)を国家・社会は用意しているのだ」と言って、かろうじて説明できる。しかし、成人なら刑の免除に上訴できるのに、少年ならなぜ犯罪のレッテルを貼られても、不処分なら抗告できないのかについていったいどう説明するのか。社会全体のシステム自体も又、問題があるのだからあきらめなさいなどとは、現憲法による人権教育を柱として健全育成をはかっている実務家は口が避けても少年に言えない。自分の子にすら説明できないことを、しかも、社会常識からかけ離れた判断を「保護」の名を逆利用して正当化することはできないはずである。
〔参考1〕二審(大阪高 平2(く)30号 平2.6.13決定)
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告の趣意は、申立人(付添人弁護士)○○作成の抗告申立書、同○○、同○○及び同○○連名作成の意見書、同○○作成の意見書並びに同○○及び同○○連名作成の意見書に記載のとおりであるから、これらを引用する。
論旨は、原決定は、少年に対し不処分の言渡しをしたが、その理由において、兵庫県青少年愛護条例8条の2第1項、17条2項1号違反の非行事実を認定している。しかし、少年の行為は右条例違反に該当せず、非行なしを理由とする不処分決定が相当であるのに、原決定は重大な事実の誤認をし、かつ右条例の解釈適用を誤った違法がある。また仮に右条例違反に該当するとしても、右条例は憲法11条、13条、14条、94条、31条に違反する違憲無効のものであり、これを適用した原決定は違法である。よって、原決定を取消し、本件を神戸家庭裁判所尼崎支部に差戻すとの裁判を求める。
なお、申立人らは本件抗告申立は以下の理由により適法であると主張する。すなわち少年法23条2項による不処分決定に対しては、それが非行事実の認定を明示したものであっても、抗告は許されない、とするのが最高裁判所の判例である(最三小決昭60.5.14刑集39巻4号205頁)が、家庭裁判所の不処分決定も実体的裁判であり、非行事実がないのに、これがあると認めることは、少年に対し心理的打撃を与え、将来にわたる有形、無形の不利益を与えることは明らかである。少年の「健全な育成を期する」という同法の目的に照らすと、少年が非行事実ありと認定、告知されたことによる一切の不利益を除去するため、右不処分決定を同条32条の「保護処分の決定」に含まれると考えるか、少なくとも同条を類推適用すべきであって、これを認めない解釈は憲法31条、32条、14条に違反する、というのである。
論旨に対する判断に先立ち、本件抗告申立の適否について判断する。
原決定は、決定書に少年を保護処分に付さなかった理由を示していないが、その理由中で非行事実を認定しているから、少年に対し、少年法23条2項後段の「保護処分に付する必要がない」と認めて不処分決定をしたことが明らかである。申立人らは、右のように非行事実を認めたうえでの不処分決定は同法32条を適用または準用して抗告の対象となる、というが、刑訴法372条、405条の規定と対比して考えても、少年法32条はその文理に照らし、抗告の対象となる決定を、本来、同法24条1項所定の保護処分に限定しているとみるのが素直な解釈である。もっとも犯罪者予防更生法43条1項に基づく戻収容決定及び少年院法11条に基づく収容継続決定は、少年法24条1項の保護処分には当らないが、これらの決定に対しては同法32条を準用して抗告が許されるとするのが一般的な解釈であり、実務もそのように運用されている。さらに最高裁判所は、同法27条の2第1項により非行事実の不存在を理由とする保護処分の取消を求める申立に対し保護処分を取消さないとした決定(以下不取消決定という。)に対し、同法32条を準用して少年側の抗告を認めるのが相当である、とした(最三小決昭58.9.5刑集37巻7号901頁参照)。しかしながら、右判例・実務の解釈は戻収容決定は、仮退院中の23歳に満たない者に対し、仮退院を取消し、あらためて少年院収容状態を復活させ、さらにはその収容期間を延長する機能を持つものであり、収容継続決定及び不取消決定は、いずれも保護処分を今後とも継続することを内容とするものであるから、これらの決定はその実質において同法24条1項所定の保護処分に付する決定と異なるものではない点に着目したものであり、不処分決定はその後における何らの保護手続きをも予定しない家庭裁判所の終局裁判であることを考えると、立法論はともかく、現行法は、保護処分ないしこれと実質を同じくする決定に限ってこれに対する上訴による救済を与えているとみなければならない。少年審判規則2条3項が、決定書には、主文及び理由の外、少年の氏名、年齢、職業、住居及び本籍を記載する、としているのに、同条4項は、不処分決定の決定書には、主文並びに少年の氏名及び年齢以外の記載を省略することができるとして、不処分とした理由の記載を法律上要求していないことからも、現行法は不処分決定に対する抗告を予定していないものと解せざるを得ない。
不処分決定であっても、それが非行事実を誤って認定された少年に現在及び将来にわたって事実上有形、無形の不利益をもたらすであろうことは申立人指摘のとおりであり(もっとも少年保護事件については法律上秘密保持に万全の配慮がなされているから、客観的には成人の刑事事件に比しその程度は低いというべきである。)、本件において申立人らがかかる原決定の不当を主張する心情は理解できないではないが、右に説示したとおり同法23条2項の不処分決定に対しては、それが非行事実の認定を明示したものであっても、同法32条を準用ないし類推適用して抗告を認める余地はない(最三小決昭60.5.14刑集39巻4号205頁参照)。
申立人は不処分決定に対し抗告を認めないのは憲法31条、32条に違反する。また成人の刑事事件における刑の免除の裁判に対して無罪を主張して上訴の申立が許されるのに、非行事実を認定したうえ不処分とした決定に対し、少年が非行事実なしと主張して抗告することを許さないのは憲法14条に違反すると主張するが、もともと、上訴によって誤った裁判の是正をどの範囲で認めるかは、専ら国の立法政策の問題であり、憲法適否の問題ではない(最大判昭23.3.10刑集2巻3号175頁、最一小決昭55.6.30裁判集218号67頁参照)から、憲法31条、32条違反をいう主張は採用の限りではない。また、刑の免除の裁判に上訴を認めるのは、それが公判手続による有罪判決の一種であることを重視し、被告人に不利益な裁判であるとしたからであると解されるが、少年保護手続は刑事訴訟手続とは異質のものであり、不処分決定を有罪判決の一種である刑の免除と同質のものとみることはできず、憲法14条違反をいう主張も理由がないというべきである。以上の次第で、論旨に対する判断をするまでもなく、本件抗告の申立は不適法といわざるを得ず、少年法33条1項前段、少年審判規則50条により本件抗告を棄却することとし、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 重富純和 裁判官 川上美明 吉田昭)
〔参考2〕一審(神戸家尼崎支 平元(少)1783号 平2.1.29決定)
主文
少年を不処分に付する。
理由
1.非行事実
司法警察員作成の平成元年6月28日付少年事件送致書中別紙犯罪事実欄記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。
2.適用法令
兵庫県青少年愛護条例8条の2第1項、17条2項1号
(主要な争点に対する判断)
附添人弁護士○○は本件事案に兵庫県愛護条例8条の2を適用して少年の行為を同条例違反であると擬律処断するならば同条例8条の2は憲法13条及び同31条に違背する違憲無効な条例を適用することになり、その結果適用違憲の違法を招来する旨主張するので判断する。ところで附添人は本件事案を明確な婚約中の青年子女間の性交為であることを前提としていると解されるところ、少年とA子間には前叙のような婚約が成立していたとは本件全証拠によってもこれを肯認し難いから、附添人の主張はひっきょう前提事実を欠くことに帰するので、理由なしとして採用できない。
次に同附添人は少年とA子(昭和47年6月2日生)との間には本件非行以前適法ないわゆる婚約が成立していたのであって、婚約者同志の性行為はみだらな性行為に該当しない旨主張するので審案するに、右主張に沿う少年の当審判廷における供述、同人作成の平成元年10月6日付手記、B子、C作成の各陳述書、D子作成の同日付報告書は全面的に措信し難く、これ等をもっては附添人主張の婚約成立の的確な証拠とは認め難く、かえってA子の当審判廷における供述を中核としながら、本件当時少年は18歳であり、A子は16歳である上、同女は私立○○高等学校2年の学生であったこと、本件交際の経緯、性交渉直前の言動を含めた両者の交際の実態、少年は相当異性との肉体交渉を経ていることが窺れるのに、A子はさ程その経験が少なく、少年の房事直前の睦言ないし甘言に忘我夢中となり、家出中という不安定な精神状態を基調としつつ、異常に性的に昂揚した精神状態にあったこと、従って少年が主として言った『一緒に住もう』との言にたやすく同意していたこと、その他少年に対する恋情をしたためた書面を相当数与えたこと等が認められるとしても、これをもって両名間に眞しかつ誠実に人生の最大重要事の1つである婚姻を予約したと推断することは困難であり、婚約が不要式の諾成契約であるとしても、その成立を肯認するには充分慎重であることが要求されるのは当然の事理であることをも考慮するならば尚更である。従って両名間の性交渉がいわゆる合意の下になされたとしても、本件情交は結婚を前提としない専ら少年がその情慾を満足させることを目的とした所為であると認めるに充分である。附添人のこの点に関する主張は独自な証拠の価値判断ないし評価を前提とするものであって到底採用し難い。
よって少年法23条2項を適用して主文のとおり決定する。
(裁判官 木村幸男)
〔参考3〕司法警察員作成の平成元年6月28日付少年事件送致書の犯罪事実
別紙
一、犯罪事実
被疑者はA子(昭和47年6月25日生)16歳が18歳に満たない青少年であることを知りながら平成元年5月15日午後2時ごろ、尼崎市○○町×丁目××番××号○○住宅において自己の一時の情欲を満たすため同女と性交しもって18歳に満たない青少年に対しみだらな性行為をしたものである。